10 豊見城村
豊見城城跡公園・旧陸軍第24師団第二野戦病院壕
豊見城村は那覇のすぐ南に隣接する村である。
村と言っても那覇の町と完全につながっており、農村風景を探すのが困難である。
豊見城は、600年以上も前の琉球の戦国時代−三山時代(北山・中山・南山)の南山王の系列の見城按司の城であった。親元の南山王が中山王に滅ぼされた後も頑強に抵抗を続けていたが、ついに責め滅ぼされたとのことである。
現在は当時の遺構はほとんど無く、石垣の一部や古井戸などが残るだけである。従って世界遺産に指定された琉球グスク群からも外されている。
現在は広大な城跡は整備されて、ミニSLなども走るファミリー向けの公園となっている。
ここからは眼下に漫湖と那覇東バイパスの橋、その向うには那覇中心街を望む眺めのよい高台である。
また、訪れる前は知らなかったことだが、ここの東側のガケの中腹には旧陸軍の野戦病院壕があり、戦争の生々しい爪跡を目の当りにしたのであった。
那覇から近いこの場所で訪れる人もおらずひっそりと佇む壕は、ある意味でひめゆりの塔や南部戦跡公園などの有名な戦跡以上に痛烈に戦争の恐怖を物語っているのかも知れない。
(2001年4月)
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これが城後公園。いろんな熱帯植物が植えられていて池もある。 ファミリーの憩いの場となっている。 |
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これはわずかに残る当時の遺構のひとつ、南風原門跡。石垣が少し残っている。 |
これも当時の石垣の一部。 |
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これは「包川(チチンガー)」であったと言われているところ。 「包川」とは古井戸で、水神崇拝の拝所であったとのこと。 産児の額に包川の水をつけることにより水霊を宿らせる儀式があったとのこと。 |
北側のガケからの那覇市街方面の眺め。国場川の一部が広くなった漫湖には湿地性植物が生い茂り緑のじゅうたんのよでうである。漫湖の上には那覇東バイパスが走りその向うには那覇中心街が見渡せる。とても眺めがいい。 |
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城跡公園を歩いていると、東側のガケに降りる階段があるのに気が付いた。 傍らには「旧陸軍第24師団第二野戦病院壕」と書いた看板が立っていた。 人気の無い階段を降りていくとその壕の入口があった。 とても生々しい戦跡であった。 看板の文字を以下にそのまま記す。 |
| 「この野戦病院壕では、沖縄戦中最激戦地と云われた首里・浦添・西原・那覇一帯から負傷兵が次々と運び込まれ、これに対応するため昼夜兼行で治療と看護が続けられました。収容能力以上600名余りの負傷兵を抱え、医療施設や医薬品も十分に間に合わず、傷口からはうじ虫がはいだしその包帯を洗っては使い、食事も満足に支給することもできず、薄暗い壕の中でうずくまって軍医さん看護婦さんと呼ぶ声や姿、そして治療の甲斐もなく戦死され埋葬された地点にまた爆撃をうけ死体や衣服が飛び散って周辺の木枝にぶらさがるなど、その惨憺たる光景は筆舌につくせなかったと伝えられております。その間戦闘はますます悪化し、昭和20年5月27日海軍記念日を期して日本海軍が総攻撃を行うと云う期待もむなしく逆に敵兵が目前に迫り、その晩からさらに南部の米須へと後退を開始しましたが、その際独歩患者には杖を与えて退院させ、重傷患者には水や乾パンを枕元に置き「最後まで望みを捨てるな」と云いつつ置き去りにせざるをえなかったと伝えられております。この野戦病院壕に配属され従軍した軍医や積徳高等女学校学徒看護隊などの生存者により合祀碑が建立された機会に、最後まで勝利を信じて戦い傷つき倒れた多くの英霊を供養しそして永遠の平和を祈念するため、昭和58年7月この野戦病院壕が復元されたのであります。」(案内看板より) | |
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これが病院壕の内部。 自分で蛍光灯のスイッチを付けて入っていく。 素掘りのままで、補強用の鉄骨は復元の際に設置したもので当時は掘りっ放しか木製のものであったと思う。 |
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「外科伝染病棟−片側に2段ベッドが並べてありました」とある。 |
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湿気がとても多い。これでは傷口にウジ虫も湧くだろう。 鉄骨も20年弱でここまで錆びたのである。 |
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壕の別な入口付近。うっそうとした亜熱帯樹林が覆われる。 かつてこの辺りにうめき声が絶えず、死体が累々と横たわっていたのだろう。 ここから見下ろすことのできる賑やかな豊見城の街並や大型スーパーなどからは、当時の惨状は想像も付かないのであった。 |
この病院壕や積徳高等女学校学徒看護隊のことが書かれています → 積徳学徒隊(従軍看護記録)